昭和五十四年十二月七日 朝の御理解
御理解第六十六節 「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。」
真の信心というか真の生き方というものを知らぬ者の、間、信心なき者の哀れさ、といったようなものをここに感じます。んなら真の信心に縁を頂いて、真の信心を身につけて行こうと、その事に生涯かけておかげを頂いていく者の上には、どういう事になるか、と。結局身に徳を受ける、という事である。真の信心とは、私は真の徳を受ける事だと思うです。
ですからどうしても真の信心を身につけて、そしてこういう窮屈な考え方、世間を狭うするような生き方から、もうそれこそ人間が人間らしう豊かに暮らして行く手立てが教祖金光大神の教えだと、いうふうに思います。信心をすると窮屈になるといったような事は、まだ本当な信心を頂いてない人の言う事であって、真の信心が身についてきたら、こんなに素晴らしい生き方はない、という事に気付かせて頂きます。
問題は稽古をしないから窮屈なのです。本気で自分の生き方の上に、信心を持っての生き方を身につけないから窮屈です。信心を別なもののように考えて、お金もいれば時間もいる、といったような考え方からの信心からは、いつ迄たっても私は、今日皆さんに聞いて頂くようなおかげにはならんと思うです。ね。[人間が人間らしうしかも嬉しう楽しう愉快に過ごして行けれる、生き方]。兎に角教えの実験である。そこから実証が生まれてくる、ね。いわゆる信心が有難いものに段々なってくるわけです。
昨日は福山から団体参拝がございました。段々感心致します事は、段々合楽的になっていかれる事です。もう殆どの方が、いわゆる日参教聴心行家業の行は、銘々のところで出来ておられるかわかりませんけれども、その日参教聴の事を皆が身をもって実験実施容していっておられる、という事です、ね。勿論福山から日参してくるわけじゃないけども、日参的信心です。ちゃんと日々のお日参りのお初穂がしてある。もうこれみんな感心です。
だから神様は、昨日の御理解じゃないけども、でけんでもでけたかのようにしておかげ下さる。日参はでけんけれども、日参が出けたかのようにしておかげを下さる。さあ、急な時には勿論電話、月に一回の合楽参りが、ね、中には二遍も三遍もお参りをしてくる方がある、ね。合楽の御分身を頂いて、合楽の神様を、と言うて奉斎される方達も段々出来てきた。
教聴はテープをもって聞かれる。おかげの泉をもって毎日頂かれる。そこに不思議なおかげ不思議な働きが福山の御信者さん達の上に起きておる、ね。だからこれは、いわばおかげの実証である。いわば信心を頂いていく者の、いうならば信心の実証、というのは、自分の心がどれほど人間らしい豊かな生き方が出来てくるか、如何に信心というものが有難いものか、楽しいものか、という事がわかってくる事だと思う。
先日聞かせて頂いた稲員さんだったろうか。最近、こ、世間にもう随分騒がせたと思うのですけども、天中殺を見て、ある若い夫婦が心中した、という、聞かれた話をここでお取次さしてもらった。二人とも天中殺によると運命が留まっておる。難儀な事が起こってくる、というその風に出ていたわけです。確かにです。んなら私共が今日の御理解にもありますように、どんなに知者も徳者も出てくる時には日柄も言わずである。死ぬる時には、もうそれこそ日柄も言わずに駆けって去ぬる、とこうおっしゃっておられる。その道中だけを日柄の方位のと言うて、ま、おかしい事じゃないか、というみ教えだと思うんです。
確かに生まれると同時に、人間の運命は定まると言われとります。それをいわば学問の上にすると、易学とか天中殺という事になるのです。ね。けれども神様は、いうならば、ね。一様におかげ下さってある。運命のよい者であろうが悪い者であろうが、ね。そこにはです、その道理をわからしてもらわなきゃならない。神様が、いうならば一切が神愛である、という事をわからさしてもらわなきゃならない。
神様は一様におかげを下さってあるのである。ただ生まれる日がちごとったり生まれ月が悪かったから、そこにんなら悪い運命なら運命が、ま、計算の上に出てくるわけである。けどもそういう氏子の上にもです。なら[心ひとつですべてをつくる]、という手立てが金光大神の教えだと思うです、ね。だから、今申しますように、ね。
ただ日参をした、教聴をした、ね、み教えを頂いた。そしておかげを頂いた、というだけではなくて、日参教聴によって、いうならば御徳を受けていかなければいけない、という事です。ね。どんな星の下に生まれた人であってもです、ね。御徳を受けたらその、いうならば悪い星の下に生まれておった人ほど御徳が受けられる、という事実があるんです。
も、天中殺なら天中殺を見ると、も、夫婦の者の運命は留まっておるというほどしの人が、ひとたび、なら合楽に縁があって、合楽理念に基づいておかげを頂き御徳を受ける手立てを覚えていったら、ね。そういう難儀の人ほどにおかげ、所謂めぐりが大きければ、おかげもまた大きい、というおかげと御徳が受けられるんです、ね。けどもそこを知らない人は教祖の、このみ教えに出てくるように、おかしな事じゃないか、と。
出てくる徳も去ぬる時も、日柄も方位も言わんでおって、その道中ばかりを、と言っておられます。そこでなら道中を、どういう生き方をすれば、おかげが受けられるか、ではなくて、御徳が受けられるか、という手立てを本気で身をもって行ずる事です。この生き方で行けば徳が受けられる、という信心にならなければ駄目だ、という事です。
福山の方達のようにです。なら福岡からここ迄の、それこそ私共が御本部参拝するだけの、あれがあります。昨日見えて、私がまた九日十日に御本部参拝さして頂きますから、その時の受け入れ態勢というか、この前のような事では、もうあの不行届きであったから、もっとその皆が心を込めてしなきゃいけん。その打ち合わせをして、ま、帰られた、という事です。そういうように例えば合楽へ対する思いも信心が変って見える、おかげを受けるところから変ってきた、ね。
そしてここで言われる日参教聴心行家業の行、ね。所謂お参りが出来んでもお参りをしたつもりでの信心。毎日ここでお話し聞く事は出来んけどもテープをもって、またおかげの泉を繰り返し読ませて頂く、という事でおかげを受けるという事がわかる、ね。だからおかげを受ける、という事は、も、それを実行しただけで頂ける。けども御徳はそんなわけにはいかん。
やはり御徳を受けるという信心。そこでなら今日、ここにあり ますように、ね。その道中だけを、その道中を、どういう信心、信をもって生きたら、いうならば天地と交流し天地との、いうなら天地の御信用が受けられるようになるか、という事でございます。だからその稽古がいるんです。簡単です、明瞭です、ね、おかげが確かです。同時に御徳が受けられるです、という生き方をね、身につけていく、というところから信心が身についてきた、という事になる。
例えば、ね、一尺八寸の竹から、あの妙なる音色が出る尺八を思ってみたらよいです、簡単です、竹一尺八寸ね。だからおかげを頂いく、というか信心が有難いとか、というのは、その尺八の音色を聞いておるようなものじゃないだろうか。おかげを頂けば、あゝ勿体ない有難い、と言っておる間は、その尺八。あゝ新たかな事じゃある、と言うておる間は尺八の音色に聞きとれておる時です、ね。それはなら日参教聴心行家業の行といったような、ね。合楽で言われる、ならば五つの願い、というような願いの信心が出ければおかげがうけられる、ね。
そこでんなら、それこそ天中殺も易学も、ね。生まれたと同時に人間の運命が定まっておる、というような人であっても、ね。親の信心により子の信心により、銘々の信心によってです、ね。そういう運命が、ね、有難い運命に切り替えられる、ね。それこそこの世合楽の世界に住む、という事が出来る、ね。極楽の世界の、もう一つ向うにある神も喜び氏子も喜び、喜び合うて生みなされていくおかげの世界にすむ事が出来る、ね。
それには、ね、稽古をしなきゃ駄目だ、という事です。尺八の音色を聞いとるだけじゃでけん。も、こんな簡単な楽器があるでしょうか。竹一尺八寸の竹を、ね。それにこう穴がほがしてある、ね。それをんなら稽古に稽古した人が吹きますと、もうそれこそ妙なる音色が出てまいります。それを聞いておるのが、ね。合楽に御神縁を頂いておかげを頂いておる、という人達の、ま、様子だと思うんですけれども。
だからその尺八が自分にも吹けれる、という稽古です。それが御徳なんです。ね。そこにはいわゆる簡単です、明瞭です、というその明瞭です、という簡単な一尺八寸だけれども、これを明瞭にしていくためには一つ一つの音符がそこに出来るほどしに、一つの曲というものの音符が出来る。その音符に合わせて、いうならばそれを吹かなければ、あのよい音色が出らない、ね。それにはやはり、その一つの素晴らしい音律が出てくるためには稽古がいるでしょうが、ね。
私だんな、もうそげん尺八は好いとるばってんが、自分で吹き習うとまでは思わん、というのは。おかげは好いとるばってん御徳まで受けんでよか、というのと同じなんです。信心しよれば、いつか御徳が受けられる、という事は絶対ないですよ。そりゃなら過去の金光教の百年の信心を皆さんが見たり思われたりしたら、もうそれでわかるはずです。
誰でも御徳が受けられる、とおっしゃるのに、そんなに御徳を受けた、という人は、それこそ数えるほどしかいない、という事実、ね。ただ音色だけに素晴らしい素晴らしいと言うておっただけなんです、ね。ですから本気でね、稽古する事です。その稽古の芯を、ここでは天地日月の心になる事と、こう教えられるわけです。合楽理念は、そういう徳を頂く手立てが、いわゆる明瞭に説いてあるのです。
もう一字の楽が、楽譜が、楽の、いうならば一つの抜ける事もなからなければ、ね。雑音になるようなものもない。その通りにすれば、その通りの音色が出るように教えられてあるんです。ね。それを、ま、簡単に言うならです。人間は土より出でて土に還っていくのだ、と。その道中とても、だから土の生き方を身につける事だ、という。これが、いうならば御徳を受ける元なんです、ね。土の心だけじゃないでしょう。いよいよ徳を受けるためには、いうならば天の心も地の心も、勿論日月の心ともならせて頂けれる、次から次と信心の奥所へ信心の奥所へと言うのは、私は、そういう信心が身についていく、徳が身についていく喜び。
それこそ年を取っても、学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい、と仰せられるように、ね。信心の御徳が身についていくそこに、いうならば、信心の真の喜びというものが頂けるような信心を目指さなければいけない、という事なんです、ね。だから自分がまず吹きならう、いうならその合楽で、こうして頂いておるみ教えを、一つの楽譜と思うて、ね。それにもとづいて吹きますと、あのよい素晴らしい音色が出てくる。
しかもその良い音色というのは、自分が吹き習うておればです、ね。あの世でも吹き続けていく事が出来る、という事です、ね。その余韻と、いうものはです、もう兎に角この世にも残しておける事が出来る、という事です、ね。皆さんどうでも、今日の御理解の、その神様、ね、皮肉まじりの感じがしますよね、どんなに知者も徳者も、ね、死ぬる時には、もう日柄言わずに走ってゆくじゃないかと。
んならお前は、生まれる時には何月何日がよか、というては生まれて来んじゃろうが。ところが何月何日と生まれた、いうなら生まれた日とか時間によって、その人の運命がわかるほどしというのは、もう運命がそこに決まって生まれてくるんだ、というふうに頂いてもいいでしょう。その決まった運命をです。神様は一様に、ね。おかげを下さろう、という手立てをです、ね。金光大神は説かれたんです、ね。
もうそれこそ福岡の伊藤さんじゃないけれどもね。去年、今年は、もう本当に難儀な事が起こって、それこそ狂い死にしなければならないような星の下にある伊藤さんが、もう日々、ね。それこそ、それこそ有難き勿体なきの、電話がかかってまいりましたのに、もう最近あっちこっちから、もうお話を頂きたい、と言うて電話やらかかってくる。
もう隙も油断も出来ませんと言うておられるです。どういう事か、と言うと自分の心が空々しい時に、電話がかかって来て、あゝおかげ頂きました、というようなものが与えられん、と言っておられるそうです。有難いですね、確かにそうです。自分の心がね、しんみりの有難いなあといったような感じの時には、その有難いなあ、と思う事を話させてあげましたら、も、その人が助かるです。ですから、もう本当に自分の心から神様をはずす事は出来ません。
今日も誰々さんに、こういうようなお話をさせて頂いたんですが、という電話がかかってまいりましたがね。もうそれこそ運命が留まっておる、いうなら、も、この世に居ないかもわからないほどしの天中殺をもってすれば、の人が今そういう自分が喜び、人までも助かり喜べれるような信心が身について来たおかげで、ね。運命が、も、逆転してしまった。素晴らしい方へ、それにはどういう事であったか、というと。
なら今、合楽で長い信心をしておられますけれども、本気で御説くを受けるための、自分では御徳を受けるための信心とは思われなかったです。けれどもその御徳を受ける為の信心に発心されたという事。それは御造営と同時であった。女ながらも、どうでもお役に使うて頂きたい。もうその日から、自分の髪飾りとか自分の身につけるようなものは一切買いません、というような事になって来て、しかもその願いが着々と進められておる、という事です、ね。飯塚の野村さんが頂かれたように、ねる真の信心とは建設に、所謂これは神様の御建設だ、という事だと思うですね。
神様の御建設に寄与する事。それに奉賛する事をもって真の信心。なら真の信心が、それだけという事じゃないですよ。ね。真の信心とは、まあだ色々ありますけれども、兎に角神様の働きに、私共が奉賛さして頂く、という事は、も、そのまま神様の働きに、いうならば身を削り心を削りする事ですから。成程真の信心だ、という事がわかります。
伊藤さん自身は、真の信心とか何とかわからなかったけれども、ただ一心発起させて頂いた。神様に喜んで頂くような信心を、と発心した。そこから自分の信心修行が一変して来た。そしてなら一年後、二年後に、いうなら天中殺を読まして頂いて、改めてわからせて頂いた事は、いうならばその運命が、いうならば有難い勿体ない、自分だけではない、人までも助かるような道が開けて来た、という事なんです。素晴らしいでしょう、ね。
だから皆さんの中にも知らず知らずの間に、いうなら信心を身につけ、おかげを頂きわかって、そして自分にも気が付かんうちに御神徳を受けていく信心になっておられる方もありましょう、ね。だからここで今日はっきり申しあげる事はです、ね。おかげの世界から、ね。ただ尺八の音色に聞きほれておるだけではなくて、その尺八を自分も、ね、吹き習えれる、良い音色の出るそれこそ、あの虚無僧が、ね。尺八を吹きながら廻る、という事がです。ただ貰いの為ではなくて、修行の為に廻ってる、という事になるのですね、あれは。
自分の吹き鳴らす尺八の音色に、それこそ聞き取れ聞き取れ修行しておるのです。楽しいでしょう。自分の吹き鳴らす尺八の音色を聞きながらの日常生活であるようなおかげを頂く為に、まず吹き習おうという気を起こさなければいけんのです。そのなら一番簡単な真の信心の入り口は、今、合楽の全信奉者がです。いよいよ合楽建設に、ね、奉賛さしてもらう。
その運動に参画さしてもらう、という事だと、いう事になります。同時に、出て来ておる時だけ、又はあの世に走って去ぬる、というその中間とてもです、ね。土より出でて土に還るのだから、その中間とても土の生き方を、いよいよ身につける、という生き方がです。御徳を受ける、という事だ、という事がわかります。ね。どうぞひとつ御徳を受けて、自分の心で自分の心が、ね、拝めれる心の状態を目指しての信心でなからなきゃならん、という事ですよね。どうぞ